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グレッグ・マダックス リンク集

グレッグ・マダックス(Gregory Alan Maddux , 1966年4 月14日 - )は、元メジャーリーガー(投手)。アメリカ合衆国テキサス州出身。 20年連続2ケタ勝利(すべての年で13勝以上)、17年連続15勝以上、全ポジションを通じて史上最多となる18度のゴールドグラブ賞受賞などの記録を樹立した、メジャー史上屈指の技巧派投手[1]。 5歳年上の兄のマイク・マダックスは2009年からテキサス・レンジャーズの投手コーチを務めている。現役時代の1986年9月29日に史上初の新人兄弟で投げ合いを演じ、グレッグに勝ち星がついた[2]。マイクの通算成績はメジャー15年間で39勝37敗、20セーブ、防御率4.05。主に中継ぎとして活躍[3]。

シカゴ・カブス(1986年 - 1992年) [編集] 1984年にドラフト2巡目でシカゴ・カブスに指名され、1986年9月3日にシカゴ・カブスよりデビュー。この年のメジャーの選手で最も若かった。1987年は初めて1年間を通してメジャーでプレー。6勝14敗、防御率5.61に終わるものの、ディック・ポール投手コーチの助言により1988年は開幕から勝ち星を量産[1]。 5月10日のパドレス戦では10回を投げ完封勝利を記録[4]。オールスター開催までに球団新記録となる15勝を挙げ、5月10日から7月10日にかけて9連勝をマークしている[5]。オールスターには球団史上最年少で選出されたが登板機会はなかった。[5]。後半戦は3勝しか挙げられず、18勝8敗でシーズンを終えた。 1989年はリーグ2位の19勝を記録し、サイ・ヤング賞の投票では3位に入った。チームも地区優勝し、リーグチャンピオンシップシリーズでは2試合に登板して2敗。ウィル・クラークには満塁本塁打を打たれた。チームはジャイアンツに1勝4敗で敗退。1990年4月29日のフィリーズ戦で大リーグ最多記録の1試合7刺殺を記録した[6]。ゴールドグラブ賞を初めて受賞し、2008年までに18回受賞している。 1992年はトム・グラビンとともにリーグ最多の20勝を記録し、サイ・ヤング賞を初受賞。シーズン中に総額2,850万ドルで契約延長を打診されたが[2]、拒否しシーズン終了後の10月26日に初のFAを宣言。ニューヨーク・ヤンキースからは総額3,400万ドルのオファーがあったが、ワールドシリーズ出場の機会を求め[7]、 12月9日に5年総額2,800万ドルでアトランタ・ブレーブスへ移籍[2]。 アトランタ・ブレーブス(1993年 - 2003年) [編集] ブレーブス時代にはトム・グラビン、ジョン・スモルツと共に先発三本柱を形成し、ブレーブスの14年連続地区優勝の原動力となった。移籍1年目の1993年はリーグ1位の防御率2.36、2年連続となる20勝を記録し、2回目のサイ・ヤング賞を受賞した。この年、グラビンが22勝、エイベリーが18勝、スモルツが15勝の先発ローテーションを形成してチームは104勝で球団最多勝記録を更新した。リーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦と第6戦の2試合に登板して1勝1敗[8]。チームもフィリーズに2勝4敗で敗退。 1994年、防御率1.56を記録した。これは1969年にボブ・ギブソンが1.12を記録して以降では1985年のドワイト・グッデンの1.53に次いで2番目の記録である[9]。またリーグ最多タイの16勝を記録し、サイ・ヤング賞を満票で受賞し史上初めて3年連続の受賞となった[9]。 1995年5月28日のアストロズ戦の8回にジェフ・バグウェルに本塁打を打たれノーヒットノーランを逃したが[10]、防御率1.63を記録し、ウォルター・ジョンソン(1918年 - 1919年)以来の2年連続で防御率1.70以下を記録[11]。 19勝2敗を挙げ、フィル・リーガンが1966年に.9330 を記録して以降で最高の勝率.905を記録した[12]。ポストシーズンは3勝1敗でチームはワールドシリーズチャンピオンとなった。シーズン終了後4回目のサイ・ヤング賞を受賞し、2年連続で満票受賞はサンディー・コーファックス以来の快挙となった[11]。 1996年は防御率2.72をマークし、球団史上初の先発投手として4年連続で防御率3.00未満を達成[13]。ただし、この年のフィラデルフィア・フィリーズ戦でベニート・サンティアゴに公式戦では初の満塁本塁打を喫した(プレイオフでは先述の通り、1989年のNLCSでウィル・クラークに打たれている)。1997年は19勝4敗でサイ・ヤング賞はペドロ・マルティネスに次ぐ2位だった[14]。 7月22日には76球で完投勝利を達成した。8月10日に投手として史上最高額となる5年総額5,750万ドルで契約延長した[2]。1998年8月18日のジャイアンツ戦で通算200勝を達成し、9月8日のエクスポズ戦で通算2000三振を達成した[15]。防御率が1点台で推移していたが終盤調子落としたもののリーグ1位の2.22[16]。1999年、リーグ3位の19勝を記録したが防御率3.57と1点以上悪化し、ブレーブス移籍後初めて防御率が3点台となった。 2000年は6月14日にジャック・モリスの持つ通算刺殺387 の大リーグ記録を更新[1]。 9月2日から9月28日かけてオーレル・ハーシハイザーが1988年に59回連続無失点を記録して以降では2番目に長い39.1 回連続無失点を記録[17]。2001年は5月終了時点で4勝5敗だったが、6月から10連勝を記録し、6月20日から8月12日にかけて72.1イニング無四球で連続無四球のリーグ記録を更新[2]。 9月は以降4連敗で17勝11敗の成績でシーズンを終えた。2002年は16勝をマークし、サイ・ヤングに次いで史上2人目の15年連続15勝を達成。5年契約が満了した2003年は1,475万ドルでプレーし、16勝11敗、防御率3.96を記録し、史上初めて16年連続 15勝を達成した。この年のゴールドグラブ賞はマイク・ハンプトンが受賞し連続受賞が13年で途切れた。10月29日FA宣言をして、2004年3月23日に古巣のシカゴ・カブスと3年総額2,400万ドルで契約した[18]。 カブス復帰 - ドジャースへトレード(2004年 - 2006年) [編集] マダックスのピッチング(2006年) 2004年8月7日に史上22人目の300勝を達成。16勝をマークし、17年連続で15勝以上となった。2005年4 月29日のヒューストン・アストロズ戦ではアストロズはロジャー・クレメンスが先発し、ナリーグで113年ぶりとなる300勝投手同士の対戦となりマダックスが勝利した[2]。 7月26日のジャイアンツ戦で史上13人目の通算3000奪三振を達成。300勝&3000奪三振は史上9人目の快挙である。また1000四球に満たないでの3000奪三振はファーガソン・ジェンキンスに次いで2人目の快挙である[19]。 2005年は13勝15敗で18年ぶりに負け越し、連続15勝以上の記録が17年で途切れたがサイ・ヤングの15年の大リーグ記録を更新。 ブルペンでウォーミングアップ中のマダックス 2006年は4月に5勝0敗、防御率1.35をマークしたものの、5月から7月の間は4勝11敗、防御率5 点台と不振に陥ってしまった。同年7月31日、シーザー・イズトゥリスとのトレードでロサンゼルス・ドジャースへ移籍。初の西地区在籍となる移籍後は、8月に3勝0敗・防御率2.37 をマークするなど完全復調を果たした。また、9月30日は中3日で先発登板し、7回を投げ3安打2失点で勝利投手となった。7月末の時点でドジャースは地区最下位だったが、マダックス加入が投手陣安定の最大の要因となり、8月は21勝7敗、9月は16勝12敗の好成績でワイルドカードでプレーオフ進出の原動力となった[20]。 サンディエゴ・パドレス(2007年 - 2008年) [編集] 2006年12月5日、1年総額1,000万ドル(2008年はマダックス、球団双方にオプション)でサンディエゴ・パドレスへ移籍。6月6日の通算338勝目の試合ではトレバー・ホフマンが史上初の500セーブを達成。8月24日、シーズン10勝をし、史上初の20年連続 13勝以上を達成。7月28日から9月19日にかけて59.2イニング無四球を記録。これは6年前の72.1回に次いで自身2位、球団史上ランディ・ジョーンズの68イニング(1976年)に次いで歴代2位[21]。シーズン終了後にはジム・カートとブルックス・ロビンソンを上回る史上最多17回目のゴールドグラブ賞を受賞し[21]、 11月19日に球団が1,000万ドルのオプションを行使し、2008年のパドレス残留が決まった。マダックス本人によるとパドレス残留以外の選択肢は引退で、2007年は楽しく過ごせ、引退する気になれなかったという[22]。2008年5月10日、史上9人目の通算350勝を達成。 再びドジャースへ、そして引退(2008年) [編集] 2008年8月19日、後日発表選手2人または金銭によるトレードで、ドジャースへと復帰した。9月28日にはジャイアンツ戦において通算355勝目を挙げ、通算勝利数において史上単独8位となった。第二次世界大戦以降活躍した投手としてはウォーレン・スパーンの363勝に次ぐ記録であり、戦後生まれとしてはロジャー・クレメンスを抜き最多勝利投手である。2008年は8勝13敗に終わり、連続二桁勝利は20 年でストップした。 2008年12月5日に現役引退を表明。通算成績は355勝227敗、防御率3.16。2009年3月18日にカブスは5月3日からマダックスの背番号「31」を、彼以前に同番号をつけていたファーガソン・ジェンキンスと合わせて永久欠番とすることを発表[23]、さらに4月5日に11年間在籍したブレーブスでも7月17日からマダックスの背番号「31」を永久欠番することを発表した。

体格、ストレートのスピードは日本人と変わらない(ストレートは大体145km/h前後である)ものの、代名詞ともいえるサークルチェンジとツーシーム、他にカッターやスライダーを織り交ぜて投球のほぼ全てを打者の手元で微妙に動かし、打者のタイミングを外すことと、バットの芯を外すピッチングが信条[24]。抜群の制球力から『精密機械』と称され、ここぞというときにはフォーシームのきれいな速球やチェンジアップを際どいコースへ投げ込み三振も狙ってとれる。また、打者の心理の虚をつく頭脳投球や、普段は眼鏡をかけていた(後年、視力を矯正)ことから、大リーグでは「プロフェッサー」なるニックネームが定着している。柔和な容貌とは裏腹に闘争本能が強く、ブレーブス在籍時にチームメイトからは名前の響きからとって「マッド・ドッグ(Mad Dog・狂犬)」と呼ばれた[24]。 通算与四球率(9イニング当たりの与四球数)は1.80。2007年のシーズン与四球率はリーグトップの1.14。34試合の先発登板の内、3与四球以上の試合が1。1〜2与四球試合が16。残りの試合は無四球を記録するなど。数々の制球力の良さを示す記録を持つ。 マダックスの象徴的な持論としては、投手にとって一番過大評価されている記録は奪三振であり、「27アウトを27球で打ち取るのが最高だ」と公言している[7]。また、マダックスの敬遠数は通算177個でケント・テクルブの179個に次ぐ歴代2位である。

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